FC2ブログ

南直哉氏著 恐山より

死者は実在する―。
そう思うようになってからは、「死者が実在する」というのはどのような意味なのか。

使者という存在がなぜリアルに立ち上がってくるかというと、
死者というものが斉射にとって決定的な意味を持っているからです。

使者から生者に与えられるもの、それは生者にとって決定的にかけているものです。
生きている限りは手に入れることができないものです。
つまり死です。
使者という存在には、市という何かが埋め込まれている。
それは当然、生きている人間には決定的にかけているもので、
普段生活している分には、それを意識することもありません。
ところが恐山というのは、死者を媒介にして、
生きている人間にその欠落を気づかせてしまうあしょなのです。

死者は斉射の側にある。
死者=死ではないのです。
一見、市というものは死者に埋め込まれている、張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山でつかんだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。
なぜなら、死こそが、 生者の抱える欠落を表すものだからです。その欠落があるからこそ、生者は死者を思う。欠落が死者を想う強烈な原動力になっているのです。
死者を忘れられない、といのは、忘れられない構造が人間の中にあるからエス。死者を忘れるということは、生きている人間が抱える欠落を何か適当な芋を作ってふさぐことに等し。しかし、使途はあらゆる意味を無効にしてしまう欠落です。死者こそがこれを指揮させる。

宗教者の素質のようなものがあるとするなら、その素質として私が一番大事だと考えるのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。
まして、霊感でも超能力でもありません。つまり、一般人にいないような特殊能力を持っていることではありません。
それではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安、先に触れた根源的な不安です。どうして自分は湖南おだ折る。このままでいいのだおるか。なぜここにいるのか、どこからきてそこへ行くのか。

死者の前に立つとき、自分の中の何かを死者に預けえいる、という感覚がある。亡くなって時間がたてばたつほど、そのような感覚が強くなっていきます。
いったい、私たちは使者に何を預けているのか。
それは、欠落してものを埋める何かだと私は考えます。

自己とは自己そのものによって立ち上がるものではない。それは他者によって課せられているものである。
それは名前と付けられることに始まり、誰かの子となり、誰かの兄弟姉妹になり、誰かの生徒になり、友人になり、部下になり、夫や妻になり


死傷であれ父であれ、その不在は、その死は、自分の死とは違うのです。
新で焼かれてはいになって、物理的に存在しなくなっても、死者からリアリティが失われることはありません。その使者が、ある人間の思考や行動に影響を与えるのならば、聖者のそれとどこがち
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

いらっしゃいませぇ~d(*⌒▽⌒*)b
最新記事
プロフィール

ぺこ

Author:ぺこ
ジャンガリアンハムスターのチビタン
仲良く暮らしてます!

最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
検索フォーム
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR